答志島:前編

コロナ禍も3年経過しました。まだ終息は見えない状況ですが、旅行・観光はかなり復活してきました。

 

実は三重県はコロナ禍で修学旅行の行先として人気があります。特に伊勢志摩地方は、京都・奈良の代わりに選ばれているようです。

 

理由は、密でないことや、自然体験ができることのようです。

 

今回は修学旅行ではなかなか行けない鳥羽の離島を紹介します。

 

写真1

出発は鳥羽駅から徒歩10分ほどのところにある鳥羽マリンターミナル(写真1)。

 

鳥羽市の有人離島は答志島、菅島、神島と3つあり、その島々への出発地点です。

 

今回は答志島へ行きましょう。

 

答志島には桃取、答志、和具の3つの集落があります。

 

鳥羽マリンターミナルから一番近いのは島の南端にある桃取。

 

和具と答志は反対側にあり、和具まで約25分、答志まで約30分です。和具と答志の間は歩いても行くことができる距離です。

 

答志島は戦国時代の九鬼水軍が本拠地としたところです。

 

九鬼嘉隆は織田信長や豊臣秀吉に仕え、当時としては最先端の戦闘船を使い、数々の戦で功を挙げています。

 

元は尾鷲市九鬼出身で、その後志摩市の波切、鳥羽へと移り、鳥羽城を作っています。

 

しかしながら関ヶ原合戦で西軍についた喜隆は東軍についた息子の九鬼守隆と戦うことになり、敗れて答志島に来ました。

 

 

その墓地があり、最後に首と胴体が離れ離れになり、それぞれを収めた塚が残っています(写真2と3)。

 

写真4

その時に流れた血を洗った池も残っています(写真4)。

 

この3か所はいずれも和具集落内にあります。

 

戦国の世に思いをはせてお出かけしてはいかがでしょうか。

 

今回は血なまぐさい話となりましたが、後編では明るい話をお届けします。

 

それではよいお年をお迎えください。

 

文・写真/ふるさと通信員・テツじゃ